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ながのだい幼稚園とえぴーく幼稚園は「静かな幼稚園」です
友達がいっぱい!楽しいがいっぱい!
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安本幼稚園

1. おぼえていますか
目の前にある自分の手や足が自分のものだとわかったのはいつなんだろう?
鏡の中の自分が自分であるとわかったのはいつなんだろう?
自分の名前が自分のことだといつわかったのだろう?
空腹や喉の渇きや痛みの感覚を知ったのはいつだろう?
全ての赤色を「あか」、全ての青色を「あお」といつ言えるようになったのだろう?
一個と一個を合わせたら二個になるのを知ったのはいつなんだろう?
三個は二個より多いと、いつわかったのだろう?
ひらがな文字の一つ一つの違いに気がついたのはいつだろう?
昨日という日、明日という日を理解しはじめたのはいつなんだろう?

大人のあなたは知性が芽生えた瞬間を全部忘れてしまっている。

いろいろなことが分かってゆく能力がいつ身についたのか?
何があってそんな能力が身についたのか?
人間の脳は自分の知性がいつ芽生えたのか覚えない仕組みになっている。
「わかる」という脳の仕組みはまだ分かっていない。

私たちの幼稚園は、幼児が大人になったとき、いつ身についたのか忘れてしまうような能力が正しく育つのを援助する穏やかな生活の場。

毎日繰り返されている、何げない普段の生活の中に潜む知的な刺激が、幼児の知性を、静かに芽生えさせ、静かに育てる。

えぴーく・長野台幼稚園は、そんな静かな幼稚園です。
2. 元気な子どもは野に放とう
えぴーく・長野台幼稚園は『静かな幼稚園』です。静かな幼稚園とは、度のすぎた大人の要求を子どもに押し付けないということです。
幼稚園は本来、子どもたちがありのまま、自然なまま、自発的に伸びて行くような環境を用意するだけでいいと考えています。コンクールで入賞することを目的として絵を描かせるとか、音楽を特訓しようとか、あるいは受験社会という中で、子どもにあやしげな早期教育をしてしまうとか、そういう意図的・作為的なことに力を注いでいる幼稚園では、いつも先生の声がやかましく響いているようです。
えぴーく・長野台幼稚園では、そんな一方的な押し付けは極力避けて、子ども自身の中に自然に備わった成長の力、発育の仕方というものを発揮して、自分自身の力で伸びていく子どもたちを静かに見守っている。そんな幼稚園でありたいと考えています。
幼稚園は子どもたちの集団です。子どもがお互いに啓発し合い、影響し合うところに、集団生活の意義があります。大人がああしなさい、こうしなさいと言うよりも、あの子ができるなら、ぼくも挑戦してみよう、わたしもやってみたいという自発的な姿勢が、子どもの意欲と自立性につながってくるのです。
そのような、子ども同士の切磋琢磨が十分に行える環境さえ整えてあげれば、大人が無理に働きかけなくても、子どもたちはお友だちとあそぶ中で、大切な能力を自然と身につけていくことができます。
鉄棒など、よくできる子を見て、ぼくもあんな風にやりたいという目標を持って、一生懸命真似をするというか挑戦してみるけれども、なかなかできない。子どもは、それでも挑戦しつづけます。しかし、自分の能力と懸け離れたことはしません。自分の身に合ったところから挑戦して、だんだん自分で自分の能力を高めていって、やがて成功する。そうしたら、できる子はまた先へ行っている。そこで、またそれに向かって挑戦していく。それを繰り返しながら、子どもたちは集団の中でいろいろと切磋琢磨して能力を伸ばしていきます。それが幼児集団のすばらしさです。
幼稚園の先生の役目は、そんな子ども一人一人をよく見ていて、どこが伸び悩んでいるのか、力の足りないのはどの部分か、よく見極めてあげることです。鉄棒の不得手な子どもに対しては、鉄棒が得意な子どもとあそぶようにうながしたり、そばについていてあげるからがんばってごらんというふうに目標をあたえてあげる。それも声高に指導するのではなく、あくまで子ども自身の努力を横から援助してあげるという形でなければならないと考えています。
逆に言えば、なんの問題もない、つまずきもない子や、素直にのびのびと、自然なまま、ありままの発育をしている子どもは、そっと見守っているだけでよいのです。
元気な子どもは野に放てばいい。それが、子どもを伸ばすいちばんの秘訣だと考えています。
3. 泥だらけの服をよろこぼう
子どもの発達を、「進化論反復説」と「三年臨界説」という、二つのキーワードから考えてみようと思います。
進化論反復説というのは、子どもは、われわれ人類の長い進化の過程と同じ道筋をたどって成長していく。そして三年臨界説は、人間の脳は三年ごとに過去を封じ込め、次の新しい展開に向かって階段状に発達していく。単純に言えば、そういうことです。
お母さんの胎内に宿り、生まれ、お乳を飲んで育つ〇歳から二歳までの三年間は、言葉も文化も持たないという意味で、狩猟採集だけで生きた原始時代の人類そのものです。子どもの砂遊び、水遊び、泥遊びなどは、大自然と闘い、大自然の中で生きた太古の人々の営みが、いまも子どもたちのどこか奥深いところに記憶されていて、本能的にそうしたあそびを求めるのだと考えられています。
次の三歳から五歳までの三年間は、集団で暮らし始めた人類の文化発生の歴史と関わっています。その時代、たくさん獲物が捕れたら、うれしいからみんなで飲めや歌えの大騒ぎをしたでしょうし、大物を捕った記念に、何か残したいと思って岩に絵を描いたりもしたでしょう。いま、幼稚園の集団生活の中で子どもが歌ったり、絵を描いたりするのは、ちょうど、その時代にあてはまるのではないでしょうか。
六歳頃になると、子どもは文字や数字に興味を持ち始めます。文字はせいぜい五千年位前に完成したもので、人類の歴史の中では比較的新しい文化です。そして子どもは、もう間もなく論理的な思考を持ち始めて、人類の歴史で言えば科学の時代に入っていくことになります。
子どもの教育で大切なことは、これらの段階を入れ換えたり、飛び越して次へ進むのは不可能だということを認識しておくことです。そして、子どもの内からあふれ出る各段階のあそびを心ゆくまで、飽きるまで堪能させることです。これを禁止して、無理やり早期知能開発や特殊な訓練に走ると、必ず子どもの心に欲求不満が残ります。満たされない気持ちを引きずったまま成長した青少年の自意識には、欲求不満があちこちにちりばめられていて、これが、あとで問題行動となって表れてきます。幼児体験が悪いというのは、こういうことを言うのです。
しかし最近、水遊びや泥遊びを極端にいやがる子がいます。子どもは本能的に水や粘土を求めるはずなのに、それをいやがるのは、服を濡らしたり、汚したりしたらお母さんに叱られるということが、子どもの心のブレーキになっているのです。お母さんには、お母さんなりの理由があるのでしょうが、洗濯をするのがいやといった親の勝手な都合が理由であることも多いようです。
洗濯がいやだから汚したらいけないといって泥遊びをさせない。そんな親の都合で、砂遊びのような根源的な欲求を断ち切られるのは、子どもにとって大変つらいことです。泥だらけの服をよろこぶくらいになってください。それはお子さんが順調に発達している証明です。泥や砂は洗濯すれば落ちますが、欲求不満は簡単には洗い流せません。
4. 幼稚園は子どもがめざめる重要な場所
大人にとっては当たり前で、わかりきっていて、いったいいつ、それができるようになったのか、もう忘れてしまっているようなことを、いま幼稚園の子どもたちは、「ああそうか、わかった」を毎日繰り返しながら、どんどん吸収し続けています。
何でそれを知っているんだろう、いつ知ったんだろう。その記憶をたどって行くと、目をきらきらさせて走り回っている、三歳から五歳のあなたに出会うはずです。そして、その時に楽しんだあそびや経験が、いまの自分の根っこを作っていることに思い至ったら、きっと、お子さんのいまの生活を大切にしてあげたいと、心から願うはずです。
子どもたちは、いま身近な環境に強い興味と関心をもって、さまざまな人、物、出来事、現象などにめざていく時期です。そして、そのまなざしは自分自身の体や心や能力にも向けられていて、自立した一人の人間としてまさにめざめようとしています。
私たちの幼稚園は、子どもたちがめざめる重要な場所であることを認識し、子どもは気づかなくても、必要な栄養と愛情を、毎日少しずつ深く静かにあたえ続けています。
文部省が定めた教育要領は、環境、人間関係、健康、表現、言葉の五領域ですが、私たちの幼稚園では子どもを中心に考えてこれを組み替え、まず子どもの外にある「環境」と、子どもそのものの「個体」の二つの分野に分け、「環境」の中に自然、生活、人間関係を、「個体」の中に健康と表現とゆう大項目、さらに体、運動、言葉、造形、音楽という項目を設けました。
自然の中の「宇宙」は、五歳になったら、プラネタリウムを見せてあげたらいいなと考えて、カリキュラムにのせました。「造形」の中には、いわゆる製作や絵画遊びだけではなしに、正方形、長方形といった図形も入れました。このように、文部省の定めた領域にはない基礎概念でも、必要と思われるものは独自の判断で取り入れてあります。それを教えるのではなしに、毎日の生活の中で少しずつ繰り返してあげれば、子どもによってそれぞれ時間の差はありますが、必ず卒園するまでに基礎概念が身についていくと考えています。
五歳児の後半ぐらいから文字も入ります。お遊戯会の案内状を書いたり、敬老の日におじいちゃん、おばあちゃんに手紙を書いたり、行事毎の招待状を書いたりしますが、それは記号のような、その子にしか理解できない文字であってもいいし、鏡文字であってもかまわない。ただ文字を書くという感覚、それをだれかに見てもらうというよろこびが、経験として子どもの心に残ればよいのです。お当番活動も、単に社会性の分野にとどまらず、雑巾三枚持って来てとか、みんなに二枚ずつ配りなさいとか、数に関連した活動もあります。
大切な基礎概念は幼児なりにできるだけ取り入れ、しかも、それは生活と関連した活動であること、しかし、上手にできることは要求しないこと。それが私たちの幼稚園のカリキュラムの特徴です。
5. 基本生活のしっかりした子を育てよう
私たちの幼稚園では、三歳、四歳、五歳と、各学年の発達のありさまを保護者の方にお知らせするために、「成長の記録」を記入していますが、この成長の記録は、毎日、先生たちが子どもを観察して記入する「一行日誌」がもとになっています。一行日誌は、子どもたちのしゃべった言葉とか行動とかを、子ども一人ひとりについてを書き残すようにしています。一学期間の記録を見ると、この子はこんな事ができるようになった。あんなことも理解できるようになったということがわかりますので、それを成長の記録にまとめて記入し、学期毎の終りに保護者に渡します。
成長の記録は、基本生活、遊び、体性機能、情緒発育、知的発達の各項目からなっています。各項目の内容は年齢に応じてレベルが高くなり、緻密になっていきますので、その年齢にふさわしいことができるようになったら○がつきます。小学校のような成績表ではなくて、子どもが先生や友だちとの活動を通じて学習し、獲得したさまざまな能力をマークしているだけですから、その子なりにがんばっているところを認めて、ほめてあげてくださいとお願いしています。
第一反抗期にあるこの時代の子どもたちは、○がついたり消えたりすることがあります。あいさつやお手伝いなど、できるのにわざとしないのです。でも全く心配はありませんし、叱る必要もありません。大人を試しているだけです。だから大人は、いつも通り態度を変えずに接してあげるとよいのです。でも五歳の終わりごろには、たいていの子は○が揃います。
成長の記録を見るポイントは、知的発達の項目よりも、むしろ基本生活だとか体制機能を中心に見ていただくことです。これでわかるのは、知能教室に通っている子の多くは、基本生活、情緒発育の項目にあまり○がつきません。ボタン留めはだめ、ご飯はこぼす、お箸も使えない。四歳、五歳になっても○のつかない子も中にはいます。ところが三歳ですでに基本生活や遊びに○がつく子は、四歳になったら、知的発育や情緒発育の項目にもほとんど全部に○がつくようになります。最近学校教育でいいはじめた生活力とはこのことではないでしょうか。
結局、普段の生活が充実しておれば、また、子どもとお母さんとがいい関係であったなら、知的発育や情緒発育の方も心配ないということです。ほとんど全部に ○がついていきます。逆に知的発育に偏った子は、もちろん知的発育については他の子よりも早く○がつきますが、人間としての基本である基本生活や体性機能の面で伸び悩みます。
毎日一行日誌に記入するためには、クラス全員の子どもを観察しなければならず、正直、先生にとっては負担が重いと言えます。しかし成長の記録は、子どもの発育・発達の姿と、ご家庭の育児の力点を客観的に伝えるメッセージだと考えていますので、偏りがあれば、お母さん、早く気がついてくださいと、祈るような気持ちです。
6. 思考能力は子どもの生きる力です
知的能力というと、数や言葉などのドリルを思い浮かべられるかも知れません。しかし実は、料理のときにも、知的能力はフルに働いています。材料の分量や調理の順番を間違ったら料理はできません。調味料の量はもちろん、計量的な思考能力、料理の段取りは順序数的な思考能力です。
幼稚園では意識して、子どもの知的能力を使ってあそんだり、これを活発にする活動をしていますが、しかし子どもは、朝起きた時から夜寝るまで、意識はしていなくても、四六時中思考能力をフルに働かせて生活しています。知的能力を育てることは、決して受験のためではなく、実は子どもの生活やあそびに欠かすことのできない、「生きていく力」を育てることなのです。
幼稚園ではよく、四枚の絵を並べ替えてお話を作ったり、あるいはお話を聞かせたあと、それを再現してもらうあそびをしています。これは言葉の分野の、お話作りのあそびであると同時に、一番目の出来事、二番目の出来事、そして三番目、四番目と、ストーリーをきちんとたどっていく、数の分野の順番並べのあそびでもあります。
同じような可能性をを持つあそびは、石ころあそびなど、子どもの生活の中に無数にちらばっています。そして、このようなあそびの中で身についた思考能力は、言語の面でも、数の面でも、それから自分たちのあそびを発展させる面でも、その基礎能力として大きな役割を果たすことになるでしょう。
たとえば、子どもが二組に分かれてドッヂボールをしようということになった。すると、放っておいても、子どもは大体同じ数に分かれます。やっぱり子どもたちは、これは大体同数じゃないと具合が悪いというのがわかる。これが、論理的に考えることの芽生えです。
思考能力を育てる教材として、数の計算ドリルなどを採用している幼稚園もあるようですが、それは、ずっと後に取り組むべきことであって、幼稚園で計算式1+1=2を教えても意味がありません。いや、教えてはいけません。
暮らしの中で、一個と一個で二個になる、二個に一個増えたら、今度は三個になるというイメージを、たとえばミカンを使って繰り返し、繰り返し、経験させてあげると、後で計算式がでてきても楽に理解できます。
そういうことの経験を全部なしにして、最初から計算式で学習させても、子どもは根本になるイメージをつかんでいませんから、簡単な計算式はできたとしても、少し難しい問題になるとお手上げになります。
つまり幼稚園では、数の世界も、言葉の世界も扱うけれども、計算式ではなく、文字ではなく、具体的な素材を使って、あそびの中で確かでゆたかなイメージを築いていく。それが私たちの幼稚園の論理的思考を育てる知性の教育です。
7. おしゃべりで子どもの発達がわかります
子どもは朝、幼稚園の門へ入ってくるなりしゃべっています。時にはやかましいぐらいですが、注意して聞いていると、言葉遣いも言葉の数も、成長の姿がきちんと反映されていることがわかります。
三歳の子は三歳らしいしゃべり方だし、五歳の子はもう大人に近いしゃべり方で、言葉遣いも正しい。それを観察しているだけで、子どもがつまずかずに、正しく発達しているかどうか判断できます。
朝礼などの時には口を閉じているようにしますが、そうでないときは自由奔放におしゃべりを楽しんでいます。先生は楽しそうに聞いてあげたり、時には冗談で返したり、そんなやり取りの中で、子どもたちは語彙をどんどん増やし、イメージも大きく膨らませていくのです。
その対極にあったのが「奇蹟の人」ヘラン・ケラーで、彼女は八歳の誕生前までしゃべれませんでした。そのために親子のコミュニケーションもできませんでしたが、サリバン先生が突破口を開き、指文字でコミュニケーションできるとわかった瞬間から、ヘレン・ケラーは偉大な人生を歩みだすことになります。
コミュニケーションの手段は言葉だけではありませんが、やはり、言葉がいちばん大切です。しゃべらずに、ただ聞いているだけでも言葉が身についていくこともありますから、幼稚園で、子ども同士活発におしゃべりするだけでも十分、教育的意味があると思っています。
言葉の異常から、病気が発見されることもあります。ある年、喃語しか喋れない子がいました。テレビで瞬間に見た画像を、しっかりとした線で絵に再現する能力があるのに、言葉と言葉の意味が関係づけられていない。「おはようございます」というと返事はしますが、それは挨拶という意味を持たない、単なるおうむ返しの言葉でしかありません。それで四歳の初め頃に親をお呼びして、専門医の診察を受けることをすすめました。診断結果は、自閉症ではないけれども、自閉症気味ということでした。
「色紙三枚持って来て」と言ったらちゃんと色紙を三枚持ってくる。これではじめて、言葉を理解しているということになります。言葉が順調だったら、まず他のことも同じレベルで出来るはずですから。言葉と、言葉が含んでる意味を、幼児なりにちゃんと把握できているかどうか。おしゃべりの中で把握できるよう、先生はしっかり観察しています
自由にしゃべることの中で言葉の概念のやりとりがちゃんとできているか。また、子どもの側から「したい、したくない」、「してほしい、してほしくない」といった、自分の意志を伝えることができるかどうかが、判断のポイントです。 
幼稚園でお茶を渡すとき、黙って入ってきただけだったら、先生はなにも反応しない。子どもが「お茶」と言ったら、「お茶がどうしたの」と聞く。「お茶をください」と言ったら、はじめて「どうぞ」とお茶を渡す。言葉について気をつけていることの一つです。
8. 文字は自分の名前が書ければ十分です
子どもは五歳ぐらいになると、文字に非常に興味を示します。それは、たくさんの素話、紙芝居、人形劇、そして絵本を楽しんだ経験が前提となっています。絵本に何か書いてある、紙芝居の裏側にも何か書いてある。いったいそれは何だろうというところから、文字に対する興味が湧いてくると考えられます。
私たちの幼稚園の中には、興味づけとして、ところどころに文字が書いてあります。「お茶できました」という看板もその一つで、お茶が湧いたら緑の看板を出します。そこにはコップにお茶が入った絵と、お茶できましたという文字が書いてある。まだだったら、赤で絵を×にして、お茶まだですと書いてあります。だから文字の読めない子でも、緑の看板を見たらお茶の準備ができたことが分かります。文字を読めない三歳児は絵を読む。それがきっかけとなって、絵の意味から文字をどう読むか、興味を持つようになってきます。
四歳頃になると、絵本の文字が読めなくとも、耳から聞いた言葉で文字面をたどっていくことができます。そして、そういう経験を繰り返すことで、そこにある文字というものを自分から読もうとしはじめます。やがて五歳、六歳になって文字が読めるようになってくると、今度はそれを書いてみたいと子どもは自発的に考えます。
文字を書くもとになるのは、まず絵で、絵の次は記号です。△や×や○、みみずのようなグニャグニャした線やいろんな点やらを書いて、それで自分は何か文章を書いたつもりで見せにきます。しかし、そのうち子どもは、正しいルールに従った文字でないと、みんなに意味を理解してもらえないことに気づくようで、やがて、鏡文字であったり逆さま文字であったりするものの、ちゃんとした文字が書けるようになっていきます。
文字の歴史を見ても、絵があって、記号のような象形文字があって、やがてみんなが理解できる今日の文字が完成しました。同じように、子どもが文字を書けるようになるまでに、記号を文字だと思って書く時期を通過しておかないと、次の文字の世界が正しく育ちません。
幼稚園では、絵や記号の時代を無理に早く終わらせようとするのではなく、心ゆくまで記号の過程をたどらせてあげて、無理なく文字の世界へ入っていけるよう、さまざまな工夫をしています。
小学校入学前になると、全員がひらかなを全部読める、全部書けるところまではいきませんが、ほとんどの子どもは自分の名前をちゃんと書くことができるし、たいだい全部読めるようになります。幼稚園では、それで十分と考えています。
したがって、私たちの幼稚園では、文字を読むことの興味づけの過程、文字を書く前段階の過程を大切にして、特に文字を読む・書くことの教育はしていません。小学校でもあまり教え過ぎないでほしいと言いますし、文字教育は控え目控え目にしておいてあげた方が、小学校に入ってから意欲的になれるのではないでしょうか。
9. 絵画・音楽は楽しめばよい
絵画や音楽は、人間の進化の歴史から生まれてきた根源的な文化ですから、子どもたちの発達にとってとても重要な活動です。
私たちの幼稚園では、絵を描いて賞をねらうといった考えは一切捨てて、子どもが自由な発想で、心ゆくまで描けるように、何を描いてもいい、下手でも上手でも、どんな色でもいい、子どもが描きたいように描かせてあげようと考えています。
また、物語を聞かせてあげてイメージの世界をふくらまし、子どもが感じたまま描く。あるいは、水族館へ行った、動物園へ行った。そこで見聞きしたいろいろなお話をもとに、帰ってから描くという方法もとっています。
お母さんは、どうしても絵を上手下手でとらえがちです。三歳児はお父さんの目はどんなだったかそれを表現する能力がまだありません。似顔絵にならないのです。でも、お父さんの絵を描くときの子どもの頭の中には、お父さんへの思いとイメージでいっぱいになっています。幼児の認識と表現には大きなギャップがあるのです。認識したことを言葉で正しく言えるようになったとき、絵も正しく描けるようになります。そして、絵が正しく描けるようになったと自分が思ったら、幼児は文字に興味を持つようになるのです。
幾何図形を使った造形は、子どもたちの大好きな制作活動で、繰り返し体験させてあげたいと考えています。三角形や正方形、あるいはそれを半分に割ってさまざまな造形を楽しみますが、年長の終わりぐらいになったら、教えなくとも、自然に六分の一だとか、二分の一だとかいった操作に取り組むようになってきます。
音楽は、根本的にはリズムがちゃんと分かって、自分の咽からきれいな声で、正しい音が出せることを目指そう。楽器の上手下手をあんまり言わないでおこうという方針です。だからお遊戯会で合奏もしますが、あまり上手でないかも知れません。でもそれでいいのです。子どもを見世物にはしない、そのことはお母さんたちに、ぜひご理解いただきたいと思います。
舞台でニコニコ笑いながら子どもたちは合奏を楽しんだ、みんなで一緒に合奏できた、そのことがいかにすばらしいことか。
実は、私たちは、音楽を数学の一種だととらえることもできると思っています。事実、現代音楽家の中には、数学の理論を応用して作曲する人もいるようです。
二分の一拍子、三分の一拍子。四分音符、二分音符。結局、自分の声で、あるいは楽器で表現する算数です。
声を出すだけ、足踏みするだけ、あるいは太鼓をたたくだけで、そのリズムから数学的なイメージが生まれていきます。もちろん子どもは、算数だと思って演奏しているわけではありません。あくまで、無意識のうちに思考に吸収されていくということです。次に子どもたちの演奏を聴かれるとき、音楽は算数、そういう気持ちでお聴きになってみてください。
10. 子どもは見せ物ではありません
運動会とお遊戯会と制作展、これを三大行事と呼んでいます。
運動会では、三歳はお母さんと一緒にダンス、四歳は子どもだけでダンス、五歳になったら少し高度な組み立て体操やマーチングバンドなど団体演技を行います。ただ私たちの幼稚園の場合、子どもに上手な演技を求めません。できない子がいてもかまいません。みんなと一緒に活動できることがもっとも大切です。それをお母さんたちだけ、肉親だけが見てくれたらいいのであって、よその人に見せるための見世物にはしません。いいえ、してはなりません。
お遊戯会はラブリーホールで開催します。子どもの中には手足の動きが不揃いだし、音楽に合う子もいますが合っていない子もいる。しかし、別にそれでもかまいません。しかし先生の方は、高さ八m、横十七mの舞台いっぱいの背景を作る、照明はプロの人と議論しながら初めから終わりまできめ細かくプランを立てる、音楽も全部で千曲ぐらい聞いてから決めるといったふうに、見えないところにものすごい精力を注いでいます。
振付も、先生どうしで綿密な打ち合わせをし、手の角度は何度というところまできちんと決めておいて、子どもの前で模範演技をします。先生の見本が日によって変わるようでは、子どもたちが戸惑います。しかし子どもは間違ってもかまいません。右と左が反対であろうが、上がるところが下がろうがちっともかまわない。子どもは舞台で、かわいい衣装を身に着けて、もうニコニコ笑いながら楽しそうやっています。
私たちの幼稚園は元洋裁学校ですので、先生たちが衣装はこんな着ぐるみにしたいと言ったら、プロの洋裁の先生がデッサンを描く、生地も探しに行く、裁断もする。そしてこう縫ってくださいと、担当のお母さんたちを指導しながら作り上げています。小さな子どもが舞台に立っているだけでかわいいのに、衣装をつけたらもっとかわいくて、まるで天使か妖精のようです。子どもは何もできなくても、そこにいるだけでいい。でもそれを取り巻く雰囲気は完璧にしておこうと努力しています。
お母さんたちには、毎年たいへん喜んでいただいていますけれども、子どもは見世物ではありませんから、よその人は入れません。入ろうと思ったら入れますけれども、来てくれとは宣伝していません。
制作展は、共同制作のテーマを決めて作っていますが、基本は一年間子どもたちが普段の保育の中で描きためた絵画を選び出して並べるだけです。それをお母さん、お父さん、ご家族で楽しんでいただくだけ。これも、どこまで行っても子どもを見世物にはしないという考えからです。
行事を見世物にしてはいけません。それは、大切な在園児を人寄せパンダにすることです。私たちの幼稚園では、行事を通して子ども自身が一人一人の能力・個性を発揮してくれればそれでいい、そしてそれを、子どもと親御さんが楽しんでくださればいいと考えて、賞をとるためとか、園児募集のために行事を利用しないという方針をつらぬいています。
11. ケガの心配が子どもの意欲をスポイルします
子どものあそびには二種類あります。一つは砂場遊び、水遊び、泥遊び。もう一つは飛んだり、走ったり、はしゃいだり、けんかしたり、また、三輪車に乗ったり、いろんな道具を使ったあそびなど、ありとあらゆる身体を使ったあそびで、こうしたあそびの姿を観察することによって、意欲のあるなし、発育と発達の姿をはっきりととらえることができます。
観察の基準となるのは、ゲゼルという人の発達心理学の研究で、そこに整理分類されている半年毎の発達段階と、実際の子どもの姿を照らし合わせていくと、子どもたちが順調に活動能力を身につけていってるかどうか、的確に判断できます。
意欲に乏しく、あそびに参加できない子どもがいます。同じ年の仲間がいっぱいいる集団の中では、子どもは自然と意欲に溢れてくるはずです。また、楽しそうだからやってみようという気持ちがあれば、必ず意欲は湧いてきます。あそべないのは、子どもの気持ちに大きなブレーキをかけている何かがあるということです。
そうした問題点を、よく観察して探ることが先生たちの大事な仕事です。生理的な問題か、病的な問題か、あるいは家庭環境の問題か、なにがブレーキになっているのかを見極めて、必要なら親ごさんと相談して対策を立てなければなりません。
ただ近ごろのお母さんは、ケガを恐がりすぎて、冒険的なあそびを敬遠する傾向があります。
あまりにも親がケガに対して過敏に反応するので、子どもをほとんど教室から出さない幼稚園もあると聞いています。園庭を駆け回る活動を通じて育つものは数限りなくあるのに、それでは、幼稚園としての役割を放棄していることになるのではないでしょうか。
心配しなくても、子どもは自分の能力以上のことは、まずしません。友だちが木のてっぺんに上がったからといって、自分もてっぺんに上がるということはありませんし、友だちが二mの高さから飛び下りたからといって、自分もそこから飛び下りることはしません。自分自身のあそびが原因で大きなケガをすることは、非常に少ないといってよいでしょう。
大きなケガはしないけれど、こけたらすりむく。友だちとあそびに熱中するあまりケンカしてひっかき傷を作る。それがあたりまえの幼稚園です。ケガをしたことで痛さが分かる。手当の仕方がわかる。それで人の痛みもわかるようになるのではないでしょうか。
ケガに対する親の過度な心配が、子どものやる気と勇気をスポイルしています。ケガを必要以上に心配するあまり、子どもの意欲の芽をつみとることがあってはなりません。
12. ケンカは仲よしになるための入り口です
子どもは気になる子と必ずケンカをします。無関心な者とはしません。気になる子というのは、仲よくなりたい子で、ケンカは仲よくなるための手続きみたいなものです。
ぼくはお前と仲よくなりたいということを態度で表すと、幼児の場合、それがケンカになってしまいます。もちろん物の取り合いもありますが、物を取り合うというのは、興味が同じか似通っているからです。
お母さんはケンカを悪いものという目でとらえがちですが、幼稚園のケンカは、親が思うほど深刻なものはありません。ケンカのあと、必ず仲のいい友だちになるというのはよくあることで、ケンカは仲良くなるための関所です。
ケンカするほど仲がいいというおおらかな目で見てあげることが大切で、あまり目くじらを立てることはないという気がします。
同じことで、幼稚園では、まだいじめはありません。いじめをするだけの自意識がまだ発育してないからです。いじめの自意識は小学校四〜五年ぐらいからでてきます。
心配はケンカによるケガですが、ケガをするようなケンカは、幼稚園ではまずないと考えていいでしょう。幼稚園児はまだ、ケンカでケガをさせてもいいというほどの意識は持っていません。ただ、はずみで目の近辺を叩いたり、物を当てたりとかいうことは、ないとは言えません。
もし、たたかれた方がケガをしたら、お友だちとの行き違いでケンカになってこうなりましたということはご家庭に報告しますけれども、たたいた方の親には何も言いません。
幼稚園の中でたたかれたのだから、幼稚園がたたいたのと同じです。だから幼稚園がひたすらお詫びするように決めています。
でもやっぱり、しょっちゅう人をたたくわんぱくな子がいます。その場合は、また別問題として、ケンカのことは言いませんが、子どもの様子を見ながら、あまり乱暴が続くようだったら保護者と相談します。
たたく子は、きびしい父親にたたかれて育っているのかも知れません。そんな子の頭の上にコブシを振りかざすと、身をすくめて逃げようとします。たたかれたことのない子は、同じようにしてもけろりとしています。
たたく傾向のある子を直すのは先生ではなく、子ども集団です。A君がBちゃんを叩いたとすると、当然BちゃんがA君にたたかれたと先生に訴えてきます。その時、A君を叱る必要はありません。Bちゃんに対して、「たたくのはよくないことやな、先生、あとで怒っといてあげるな」と言ってあげると、Bちゃんは自分の訴えが受け入れられ、正義も認められたので大満足です。
それを何度も繰り返すと、この集団は、たたくのはよくないことだということが分かる集団になります。そして、すぐ人をたたく子もやがてたたかなくなります。教育とは時間のかかるものなのです。
13. 言葉の悪さを嘆くよりお友だちの輪を広げることが大切
子どもは汚い言葉、悪い言葉が大好きです。年長になると、先生のあげあしをとり、ひやかしも多くなります。
中には、いい言葉だけをしゃべってほしいと、「こんにちは、お邪魔します」、帰る時には「お邪魔しました」「失礼いたしました」と、大人でもなかなか使えないような挨拶を教えているお母さんもいらっしゃるようです。
逆にものすごく言葉の悪い子もいて、そんな子どもたちが一緒に交じって遊ぶわけですから、幼稚園に行ったら言葉が悪くなったという嘆きを聞くこともあります。
しかし、悪い言葉を覚えたというのは、その子どもにとっては一つの進歩・成長で、それによって悪い言葉を喋る子との交流関係が広まったという意味で、人間としていいことだと思います。
悪い言葉は先でも直せますが、大切なことは、幼稚園に来たら、そこにいる子どもとまんべんなくあそべるということです。特定の子とお友だちになるのも大切ですが、まんべんなく友だちとしてお付き合いできることの方が、人間的としての領域が大きく伸びたんだと思います。
悪い言葉はいけないとあまり厳密に抑え過ぎると、子どもは喋れなくなります。だから、あまりことばのはしばしに神経をとがらすより、母親に対して、父親に対して、よく喋る子、悪い言葉であろうが、いい言葉であろうが、誰とでもコミュニケーションできる子。そして、現在喋ってる言葉で、意志の疎通、概念のキャッチボールができる子だったらそれでよしと、親の方が大きな気持ちを持ってもらった方がいいでしょう。
それから当然、言葉はお喋りも大切ですが、人の話を聞いて理解することも同じように大切です。話す能力の元は、聞くことからはじまりますから。たくさん聞かないとたくさん喋れません。
幼稚園では、もちろん先生たちにいい言葉を使いなさいと言っていますが、それと共に、情緒的であいまいな表現を避けて、誰にでもわかりやすい、論理的できれいな発音で話しなさい。内容のともなわない、ばくぜんとした言葉使いはやめましょうと申し合わせています。
豊かな感性とか、たくましい心と言いますが、実際にはどういうことなのかわからないでしょう?そのようなあいまいな表現は避けるようにしています。
カリキュラムの書き方も、絵画で言えば、「AからBのきれいな線分を引く」という論理的ではっきりとした文章で目標を立てます。AからBまでの線分を引くというのは、3歳にとっては非常に難しい。それを何回も練習しますというふうに書いてあった方が、豊かな感性といったあいまいな言葉よりも、カリキュラムのねらいが論理的にはっきりします。
また、子どもの混乱を避けるために、お茶なら「お茶」と呼ぶよう申し合わせて、「やかん」「ちゃびん」といった呼び方をしないようにしています。
14. 子どものよろこびが先生のよろこびですむ
子どもたちが登園して降園するまでの間、すべての時間は保育です。子どもたちは自由に活動していますが、先生は自分の言動すべてが子どもへの保育ですから、手本としていつもいいものを見せなければなりません。また、常に子どもたちの安全にも気を配らなければなりませんから、先生は、ご飯を食べる間もずっと緊張しています。
幼稚園には生活するうえでさまざまなルールがあります。入園早々は、まだルールの実感がありませんから、子どもたちはよく間違いをおかします。でも先生は、いつも決めた約束通りに行動します。子どもにルールを守れと言う前に、まず先生の方がそれをきちっと守っていれば、子どもたちは自然に先生を見習ってくれます。だから先生は子どもにはちっともきびしくしない。でも先生たちは、ルール、約束、幼稚園の決まりを守るように、きびしく自分自身を律しています。
結局、先生の力が足りないから、叱らねばならないようなことを子どもがする。先生が教師としての技術に優れ、人間的に子どもたちにしたわれていたら、子どもは自然とルールを守るようになります。したがって子どもを叱る必要はなくなります。
ただ暴力と差別、この二つは別です。癇癪を起こして人をたたく暴力、わざと仲間はずれをつくる差別。この二つはきびしく叱ります。きびしく、「いけない!」と制止するだけで理屈は言いません。もちろん先生が子どもをたたくことはありません。
小さい子どもたちは、結局、大人を見て、その真似をしていくわけです。その身近な大人として、いつも先生が理想的な姿を子どもたちに見せておかないと、子どもはいい子に育ちません。
だから先生は、おもしろいこと、子どもの楽しいことをいっぱい用意しています。その人の力に合わせて、吉本的なおもしろいことしてもいいし、レベルの高いところで引きつけてもいいし、どんな方法でもいいから、子どもを引きつけるような力を持とうと申し合わせています。日程をつくるのでも必死で、ただ絵を描きましただけではだめです。これを描くことで子どもの何が育つか、、どこがおもしろいか、そこまで、考えていないとやり直しになります。それだけに、子どもたちが自分の努力に応えてくれたとき、先生たちはとても幸せな気分になります。
一日の保育は、緊張と緩和の繰り返しです。緩和が主ですが、やはり小学校へ行ったら四〇分なり五〇分なりの授業があるわけですから、幼稚園でもその間、きちっと先生の方を向いて、授業というものが受けられるような精神構造とか、体の仕組みの準備をしておく必要があります。最近、子どもが授業時間中に座っていられないでウロウロ歩き回る。あるいはふっと教室から出て行くという学級崩壊がよく報道されていますが、やはり、一定時間、緊張して前を向いて座っている経験が足りないせいではないでしょうか。その意味でも、設定保育の時間はとても重要だと考えています。
15. 人間には母性本能はありません
日本ザル以上の高等霊長類は、人間も含めて進化の過程で母性(子育て)本能を捨て、もっと高度な学習能力を手に入れました。戦前までの日本人は、大家族の中で子どもの頃から、母親や姉や叔母や近所のおばさんたちの子育ての様子を、毎日のように見聞きしたり、手伝ったりする経験を通して学習し、それを受け継いできました。
戦後になって、多くのサラリーマンは大家族主義を捨て、核家族、団地族になりました。ちょうど高度経済成長時代で、お父さんは仕事で忙しくて帰ってこない。家の中はお母さんと子どもだけ。その上、お姑さんがいませんから、大家族の中で育まれた育児のローテーションというものが断絶してしまいました。
今のお母さんたちは、さらにその子どもか孫ですから、ますます子育ての仕方、自然な子育てのあり方が分からなくなって、人為的、作為的な教育論ばかりがまかり通るようになってしまいました。
もちろん戦後、社会環境、自然環境がこれだけ大きく変化したのですから、戦前の育児法の多くは役に立たないかもしれません。しかし、わが家流の子育てのポリシーといったものは、いまでも十分通用するのではないでしょうか。
現在、商業主義をベースにした子育て論が横行し、マスコミもそれを助長しています。もちろん中にはすぐれた育児書もありますが、おおかたのお母さんは、本にお風呂はこう入れなさいと書いてある、テレビから流れる何をこうしなさいといった知識だけで育児をやろうとする。また、あふれる育児情報の中で、いったいどれを信じたらよいのか、わからなくなって、まるで流行の服を取り換えるように、次々と違う育児法を試してみる。
大家族だったら実際に経験したり、困ったときには相談もできたのに、たとえ、お姑さんに育児を教えてもらえる環境であっても、それを敬遠して本やテレビの情報に頼るようになりました。
その結果、わが子だけの独自性や特性を無視して、情報に合わせて子どもを育てようとするお母さんが増えました。しかし子どもは、情報通りに育つはずがありませんから、お母さんは急速に子育てへの自信をなくし、毎日不安でいっぱいになっています。
母性本能も子育て本能もない人間、少女期や思春期にお手伝い体験で育児を学習する機会のなかったお母さん、一人で悩んでいないで、私たちの幼稚園にご相談ください。私たちはこれまで、何千人ものお子さんを預り、送りだしてきました。子どもがどんなふうに育っていくのか、あなたより少しは知っています。
私たちの幼稚園は、あなたのお子さんが心身ともに健やかに育つよう、協力と援助をおしみせん。
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